不妊治療の先生に聞いてみた

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公開日

生殖医療一筋42年
日本の生殖医療の黎明期から歩み続けてきた医師
これからも患者さんのために
【京野アートクリニック高輪 京野廣一先生】

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日本初の体外受精による妊娠・出産が成功したのは1983年のことです。

当時東北大学医学部産婦人科で体外受精チームの一員として携わり、これまでずっと生殖医療とともに歩んできた京野廣一先生に、日本の生殖医療の歴史と、これからの展望についてお話をうかがってきました。

日本で生殖医療が始まった当時の培養環境は、どのような部屋だったのでしょうか。

現在の培養室は、クリーンな環境で、培養室は外からの空気の流れは遮断され、HEPAフィルターで処理されたキレイな空気が培養室内へと流れています。しかし、私が体外受精に携わり始めた1980年頃の培養室は、今のようなクリーンな環境ではありませんでした。

当時の培養室はごく普通の部屋で、入室の際にはマスクや帽子は着用し、手洗いもして清潔には気を遣いますが、エアシャワーなどもなく、チリやホコリを十分に落とすことはできていなかったと思います。

当時は、大学病院の中で培養室を作ることも大変でしたが、清浄度については今では考えられないような状況でした。

そのような環境の中、体外受精はスタートしていたのです。

培養液についても、今のようなメーカーはありませんでしたから、1回1回、手作りしていました。

当時は、特級の、一番良い粉末培地と「良い水」を使って混和しなければなりませんでした。この「良い水」を選択する、作ることが重要で、クロマトグラフィーを何回か使って水を濾過して、キレイに精製していました。たとえば、富士山の水が良いらしいと聞けば、それを使って精製して使うなど、ピュアな水探しが大変重要な課題だったのです。

この培養液は、採卵が決まったら作っていました。また、精子の調整、受精操作、胚発生から胚発育と同じ培養液で、今のようにそれぞれに特化した培養液はありませんでした。組成についても、今のようにアミノ酸成分の何々などと、細かな栄養素は入っていなかったと思います。

移植する胚も、受精から2日目の初期胚で、だいたい4細胞期くらいです。今のように胚盤胞まで育ててから移植する方法は、まだありませんでした。

培養環境が変わってきたのは、いつごろからですか?

体外受精が始まったばかりの頃は、腹腔鏡で採卵を行っていましたが、1985年半ば頃から経腟採卵が行われるようになり、その頃からだんだんとよくなってきたと記憶しています。1980年代後半~1990年代は、海外へ留学する医師や、海外でのワークショップで技術を身につける医師も多くいましたので、海外の培養環境や論文を参考にしながら培養室の清浄度やインキュベーターのガス濃度などが整えられるようになってきました。海外のデータから、インキュベーターのガス濃度は5%CO2 、5%O2 、90%N2 が良いことがわかり、それぞれチューブから庫内へ送り、低酸素の状態を保つように工夫することで成績も上がり始めました。今のようにマルチガスインキュベーターなどありませんでしたから、すべてが手作りと工夫の連続で、それをメーカーへ情報提供することで、インキュベーターや培養液などの開発が進んできたという経緯もあります。

培養については、当時は培養士がいませんでしたから、主にドクターが行っていて、培養液などは実験助手が作ることもありました。

1990年以降、培養士を採用する病院が増えてきました。現在では医師と培養士は分業化されており、顕微授精や凍結保存、胚の培養などに関しては培養士の力量が治療成績に大きく影響します。

そのような状況を鑑みて、当院では開院時に、培養環境にこだわった培養室を設計するとともに、実際に培養室で働く培養士の教育にも力を入れてきました。国内外への技術研修やISOの取得などを積極的に行い、現在では、国内に数十名しかいない管理胚培養士をはじめ、学会認定の資格を持った胚培養士が責任をもって体外受精を行っています。

患者さんの治療スケジュールは、どのようなものだったのですか?

以前の排卵誘発方法は、今の低刺激周期に近い、クロミフェンを用いた方法が多く、採卵は、腹腔鏡手術で行っていました。

たとえば、月経5日目から9日目くらいまでクロミフェンを飲んでいただいて、月経11日目あたりに腹部エコーで卵胞の大きさを確認して16~18ミリくらいになったら、入院していただきます。

患者さんは、採卵前から胚移植後まで、だいたい1週間ほどの入院になります。

入院したら3時間おきに尿検査でLHサージを診て、LHサージを確認したら、その28時間後くらいに採卵手術を腹腔鏡で行います。そのため、手術が午前0~1時くらいになることが多かったです。

採卵手術が行われる日は、夜23時くらいになるとスタッフ7~8人くらいが集まり、準備を始めました。

受精には当然、精子が必要になりますから、ご主人には午前4~5時頃に採精してもらっていました。男性も大変で、奥さんに付き添って、病院に泊まる人がほとんどでした。

採卵手術後は、検卵、前培養を行って、精子の調整をし、受精作業を行うのが午前6時くらいでした。受精作業後は胚培養を行い、受精から2日目のだいたい4細胞期の初期胚を子宮へ移植します。

移植後、患者さんには、ベッドの上でジッと動かず24時間安静にしていただいていました。このように体外受精を受ける女性は、本当に大変でした。そして、日本初となる体外受精による妊娠は、こうした医療環境の積み重ねの中で現実となったわけです。今では、採卵は日帰りで入院の必要はなく、胚移植後の安静時間も必要ありませんから、ずいぶんと変わってきたと思います。

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患者さんは、何年くらいから増えてきましたか?

1983年3月に、東北大学で体外受精による妊娠に成功したという最初のニュースが流れた頃から徐々に増え始め、10月に出産したというニュースが流れてからは電話が通じなくなるほど、全国から問い合わせがきました。

体外受精のチームを牽引されてきた鈴木雅州先生が1985年に退官されて、その翌年に日本初の体外受精を行うプライベートクリニックとして、スズキ病院(現在のスズキ記念病院)を宮城県岩沼市に開院されてからは、全国から患者さんがお見えになっていました。

その頃、日本の女性の平均初婚年齢が25歳くらいで、第一子の平均出産年齢が26歳くらいでした。体外受精を希望する女性は30代前半で、卵管因子などが主な不妊原因でした。1992年になると顕微授精が登場し、男性不妊が体外受精の適応となる原因として、あげられるようになりました。

1990年後半には急速ガラス化保存法による胚凍結ができるようになり、2000年を過ぎたあたりから体外受精患者の高年齢化が進んできました。2022年4月以降は、体外受精に保険が適用されるようになり、患者年齢が少し下がってきました。今まで見なかったような20代後半の患者さんもいらっしゃいます。ただ、43歳以上の患者さんは本当に少なくなりました。

現在、京野アートクリニックでの最高年齢の患者さんは48歳で、先日の採卵で成熟卵を得ることができました。胚の発生、発育から移植、妊娠の成立となんとか順調に進んで欲しいと願っています。

初婚年齢が上がり、第一子出産年齢も上がってきたように、不妊治療患者の年齢も上がってきました。高年齢での体外受精患者が増え、高年齢初産も多くはありませんが増えてきました。しかし、過去を振り返ってみると、大正14年には45歳以上の母親から生まれた赤ちゃんは約2万人いました。そのほとんどは、初産ではなく、なかには10人目の赤ちゃんというケースもあったでしょう。ということは、月経が止まっている期間が出産と授乳によってあることで卵巣機能が比較的若く保たれている可能性があります。

今は、45歳以上は、自然妊娠よりも体外受精や提供卵子による妊娠、出産例がデータとして上がってきているケースの方が多いと思います。

これからの培養環境は?

体外受精は、in-vivo(体の中)が基本です。体内環境から得られた情報を元に体外培養環境が整えられてきたわけですが、どこまで再現できるか、どこまで近づけることができるかということが、とても大切なことなのです。

たとえば、従来のインキュベーターは、胚の発育を観察するために、1日1回、インキュベーターから出さなくてはなりませんでした。出す時間は短時間ですが、その間に光に当たったり、外気温に晒されたりと、胚にはストレスがかかります。

集合型インキュベーターの場合は、ドアを開けてガス濃度が戻るまでに何分か必要で、その間、インキュベーター内にある胚にもストレスがかかります。開閉回数が多くなれば、そのストレスも増えていくわけです。しかし、顕微鏡とカメラが内蔵されたタイムラプス型インキュベーターでは、胚の連続写真を外部のパソコンで観察することができるため、胚にストレスを与えずに培養を行うことができます。当院では早い時期からこのタイムラプス型インキュベーターの有効性を確認しましたので、今では、希望するすべての患者様がこのインキュベーターを使えるように整備をし、胚にストレスを与えない培養を実施しています。

日本でようやく実施できるようになった着床前診断(PGT)も大きな変化です。この方法ではあらかじめ胚の染色体を調べて、正常(euploid)胚を優先的に移植することで早期の妊娠と流産を防ぐ効果が期待されます。胚盤胞培養や胚のバイオプシーは培養士が、遺伝カウンセリングは医師が行いますが、いずれも十分な知識と経験が求められます。今のところはまだ保険診療外になってしまいますが、必要とされる患者様も多数いらっしゃいますので、当院でも導入して技術の研鑽に努めています。

体外受精における培養環境の変化はいまだにめまぐるしいものがあります。胚盤胞ガラス化凍結、高倍率で精子を観察するIMSI、卵子の紡錘体観察、レーザーアシステッドハッチング、タイムラプス培養、ピエゾICSI、PGTなど、これまでに多くの新しい技術が登場してきましたが、広い視野を持ち、良いものは積極的に治療に取り入れる姿勢が大事だと思っています。その結果、治療成績が大きく向上し、昨年は国内平均である34%を上回る、48%の妊娠率を達成することができました。

よりきめ細やかな胚発生、胚発育を観察するために、良いものを選ぶことも大切なのですが、体内の環境とは違います。本来、胚が育つ卵管内には上皮に線毛細胞があり、卵管液が流れています。

胚は、線毛の動きと卵管液の流れによって子宮へと運ばれていきますが、そうした刺激や、栄養を取り入れ、アンモニアなどの老廃物を出しながら、だんだんと組成の変わる卵管液の流れも胚の発育には必要なのではないかと考えられています。

そこで人工卵管による培養も考えられるでしょう。それは卵管ほどの極細のチューブ型のインキュベーターで、患者様は渡されたバーコードなどでテレビ画面に胚の発育の様子が観察できるという時代が来るかもしれません。

私が、この40年以上を生殖医療と共に歩んできたなかで言えるのは「お手本は、体内にある」ということで、生殖医療はまだ進化、発展の途中だと考えています。たとえば、先ほども話した人工卵管による胚培養もそうです。

また、卵巣機能を若く保つ方法としてピルの服用で月経を止めても、出産、授乳で月経が止まっているのとは、何かが違うようです。

では、どうすればうまくいくか?は、体内環境というお手本を科学的に解明すること、そしてそれを再現するための方法を探し出すことによって、大正時代に45歳以上で赤ちゃんを産んでいた女性のような体づくりができ、高年齢での初産への挑戦も今より可能性が広がっていくのではないかと考えています。

京野アートクリニック高輪 理事長 京野 廣一 先生

経歴

  • 1978年
  • 福島県立医科大学を卒業し、東北大学医学部産科学婦人科学教室入局
  • 1983年
  • チームの一員として日本初の体外受精による妊娠・出産に成功
  • 1995年
  • レディースクリニック京野(大崎市)開院
  • 2001年
  • 卵子凍結(緩慢凍結・急速融解)による妊娠・出産に成功
  • 2004年
  • 卵子凍結(ガラス化法)による妊娠・出産に成功
  • 2007年
  • 京野アートクリニック(仙台市青葉区)開院
  • 2012年
  • 京野アートクリニック高輪(東京港区高輪)開院
  •  
  • 卵子凍結(医学的適応・急性リンパ性白血病)による妊娠・出産に成功
  • 2016年
  • 日本初の卵巣組織凍結保存センターHOPE(Human Ovarian-tissue Preservation Enterprise)設立
  • 2019年
  • 京野アートクリニック盛岡(盛岡市)開院

専門医、所属学会

日本生殖医学会 認定生殖医療専門医
日本産科婦人科学会 認定産婦人科専門医
日本生殖医学会代議員
日本産科婦人科遺伝診療学会代議員
日本受精着床学会理事
日本生殖発生医学会理事
日本不妊予防協会理事、日本IVF学会功労会員、日本卵子学会功労会員

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